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倉阪鬼一郎「活字狂想曲」

 倉阪さんの主だった作品をほぼ読み尽くしてしまったので、レアものの(笑)「エッセイ」を借りてきてみた。副題「怪奇作家の長すぎた会社の日々」。倉阪さんが某印刷会社の文字校正係として過ごした11年間のことを綴った一冊である。

 「これは、まったく向いていない会社勤めを11年間続けた、ある現実不適応者の記録である」という一文から始まる本書は、もともと彼が印刷会社にいた時期に同人誌「幻想卵」に9年間にわたって連載されたもの(倉阪さんご自身は、この文章を「漫文」と称している)なんだそうである。つまり作家がサラリーマン時代を振り返るというものではなく、ほぼリアルタイムのいわば「実況中継」である。

 だからか、その内容は無茶苦茶リアルである。校正のお仕事、奇人変人揃いの同僚たち、会社組織として行われている様々な因習…多少の脚色はあるだろうが、少なくとも最後の「因習(後述)」に関しては、典型的な「あるある話」である。読みながら何度も、「うんうん」と肯いてしまった(笑)。

 「校正」という仕事に関しては宮木あや子の「校閲ガール」がTVドラマになったりして(観てないけど(笑))、最近ちょっとだけ認知度を高めたように思う。もっとも「校閲ガール」の舞台になったのは出版社の校閲部で、倉阪さんによれば出版社の校閲部と印刷所の校正係は、方向性が全く異なるのだそうだが(詳しくはぜひ、本書をお読みいただきたい)。

 本書には製版部門、電算写植部門(この二つの違いを調べてみたのだが、未だによく分からない)、オペレーター、コーダー、フィニッシャー、版下、色校紙、ゲタ文字等々、その道の専門用語がほとんど説明なしにばんばん出てくる。その度に wikipedia のお世話になる羽目になったが、それはそれで今まで全く知らなかった世界を垣間見たような気分になれてちょっと楽しかった。便利な世の中になったものである(笑)。

 印刷所というところは〆切が第一であるにもかかわらず、こと校正係に関しては「これで終わり」という明確な区切りがない仕事らしい。しかも誤字・脱字を少しでも見落とすと場合によっては甚大な損害を被ることになりかねないらしく、かなりストレスの溜まるお仕事のようだ。どこまで本当なのかは分からないが、毎年心臓麻痺で死人が出るんだそうだ。

   ある店の案内に「五月五日まで無休」というネームが入った。

   これを「無料」で行ってしまい、その後誰も気がつかず、

   たった一文字のために七十万部が紙くずとなった。

 なんて下りを見ると、笑っちゃいけないんだろうけどどうしても笑ってしまう。つげ義春の「ねじ式」に登場する「メメクラゲ(××クラゲの誤植)」みたいに社会的に認知されてしまったものもあるが、多くの場合は洒落にならないのだろう。

 そんな業界あるある話を読むだけでもかなり興味深いのであるが、本書の醍醐味はなんといっても倉阪さんの「現実不適応者」ぶりである。QC活動、提案制度、指差呼称、朝礼、ラジオ体操、親睦会、社員旅行…会社なら大抵やっているでろう様々な「因習」に、倉阪さんはことごとく背を向ける。カラオケだけには行くみたいだが、なにしろマニアックなレトロ歌謡しか歌わないので、どっちにしても周囲から浮きまくっているようである(笑)。

   要するに私は、学校だの会社だのといった自ら選んだわけでは

   ない人間関係にべたべたまとわりつかれるのが、ひたすら

   うっとうしくて嫌なだけなのである。

 挙句の果てには、昇進話でさえも「いやです」の一言で一蹴してしまう始末。こんなので、よく11年間も勤めることができたものである。ご自身でもおっしゃっているが、おそらく校正者としてはとても有能だったのだろう。

 だがしかし、結局倉阪さんは上司と大喧嘩した挙句に会社を辞めてしまう。それと同時にこの連載も、唐突に最終回を迎えるのである。辞めた後に長々と愚痴らないあたり、潔いというべきか諦めが良すぎるというべきか(笑)。

 周囲の人間をひたすらバカ扱いし、自分自身のことは臆面もなく「天才」だの「生き字引」だのと言ってしまう倉阪さん。彼のことをよく知らない人が本書を読むと、ひょっとしたらこの上から目線に不快感を抱くかもしれない。しかしながら最初に自分のことを「現実不適応者」と言っているし、倉阪さんの作品をある程度読んだ人ならそれ自体がギャグであることを理解できるのではなかろうか。

 倉阪さんが会社のことを茶化せば茶化すほど、その対象があまりにも当たり前のものなだけに倉阪さんご自身の特異さが浮き彫りになっていくという仕組みである。もちろんこれは意図されたものに違いないのだが、読み進めていけばいくほど現代の会社社会というものがどうしてもバカらしいものに思えてきてしまう。そう感じさせられた時点で、倉阪さんの勝ち、ということなのだろう(笑)。

 さて、毎回楽しみにしている講談社バカミスシリーズだが、前作「桜と富士と星の迷宮」から1年余りが過ぎた。そろそろ新刊が出るんじゃないかと思っているのだが…。