意味と基準

人はだいたい得意分野があって、その分野では細かいことまでわかるし、見通しも利くので行動する際にはその範囲の情報を活用します。ただ、その分野の影響が支配的でない場合もあり、あまりに不得意で見通しのきかない範囲の影響が大きい場合には人は「予測不可能」と言います。実際には予測可能なことを予測不可能と言われたりすると、つい反論したくなるものの、当人にとっては本当に予測不可能なのでしょう。

過去の日記でもしばしば書いているように、客観的と言われる事象でも実は人間の感覚に影響され、つまりは刺激と認識の一致がないと観察される事実は一致しません。極端な例では盲目の人に色の違いで判断しろと言っても無理なのと一緒です。また、日本人がLとRの発音の違いを聞き取れないのは環境と学習によるもので、物理的に聞こえている音も脳の機能も一緒なのに日本語を母国語とする過程で聞き分けられないようになる、と言う有名な話もあります。

学習によってだいぶ軽減されたものの、私自身も最近の言葉で言えば「コミュ障」の傾向がありましたが、実はこれも感覚と認識の違いを理解していないことによるところが大きかったのだろうと今では感じています。誰かに話しかけたときに「今話しかけられたくないのがわからないのか」などと言われることがしばしばあり、結局わからなかったりすることがあって、それは「他の人にわかることがわからない」パターンで、それだけなら私が障害者です。しかし、逆に私自身が「そんなのわかって当然だろう」と思うことが理解できない相手だったりすると、これがコミュニケーション阻害のさらなる原因になります。私にとっては相手が障害者なのですが、相手がマジョリティであり、さらにはマジョリティであることに固執する(そういう固執も私にとっては障害に見えます)タイプだったりするとさらに「おかしいのはお前の方だ」と攻撃してくるため、余計コミュニケーションが阻害されることになります。

「妖怪が見える体質」と自分の経験の共通点を書くことも多いのですが、優劣とは関係ない違いがそうやって障害として認識されるケースもままあって、その延長で考えると現在疑いなく「これは優劣」と感じている障害も障害と言う認識が合わなくなる時代もくるかもしれない、と思えてきます。それはつまり、障害は多様性に過ぎない、と言う考え方で、自分が経験した狭い範囲の環境への適合をものさしにして「障害者」を決めるのは正しくありません。もちろん、現状で困難を感じる人を救済するための基準として傷害者の定義は必要です。ただ、それは人間のランク付けにはなりえない、と言うことは社会的に認知されるべきでしょう。